主の存在
主とは、Mの心の柱となるべき物である。
良くSMにおいて、Sの方をご主人様と呼びますが、ご主人様とは何なのでしょうか?
俺が思うに、奴隷の心の支えとなるものであり、M女性にとって仕える対象であると思います。
従って、主人と奴隷との間には、心の繋がりがないといけないと考えています。
心の繋がりのない主従関係は、虐待と同じであり、感心できません。
心の繋がりがあるからこそ、相手を喜ばせたいと言う感情の元、主は、奴隷に対して奉仕させる喜び、心の枷を外すことを教え、奴隷は主の喜ぶ顔を見たいために与えられる苦痛や不安等を乗り越え、快楽を得ることが出来ると考えています。
あと、よく間違えるのが、主は絶対であると思うことである。
SMは、人対人であるにもかかわらず、主が奴隷を物以下の扱いすることがある。
俺は、そのように扱うことは出来ない。
何故ならば、主は奴隷の心の拠り所であるにもかかわらず、それを突き放す行為は、奴隷との心の繋がりを拒否していることに繋がるからである。
繋がりを拒否されれば、相手を喜ばせたいという行為そのものが否定されていると考えても問題ない気がするからです。
そんな状況に自分が追い込まれたとき、相手を信用できるかどうかを考えると、信用という観点では、信用なしの状態であり、相手のすることに対して疑心暗鬼になること間違いないと思う。
結局何が言いたかったと言うと、心と心の繋がりの中で、自然とお仕えしたいと出てくる言葉が“ご主人様”だと思う。
ご主人様になるには、相手の心をしっかりと掴む必要があるのではないでしょうか。
俺が思うに、奴隷の心の支えとなるものであり、M女性にとって仕える対象であると思います。
従って、主人と奴隷との間には、心の繋がりがないといけないと考えています。
心の繋がりのない主従関係は、虐待と同じであり、感心できません。
心の繋がりがあるからこそ、相手を喜ばせたいと言う感情の元、主は、奴隷に対して奉仕させる喜び、心の枷を外すことを教え、奴隷は主の喜ぶ顔を見たいために与えられる苦痛や不安等を乗り越え、快楽を得ることが出来ると考えています。
あと、よく間違えるのが、主は絶対であると思うことである。
SMは、人対人であるにもかかわらず、主が奴隷を物以下の扱いすることがある。
俺は、そのように扱うことは出来ない。
何故ならば、主は奴隷の心の拠り所であるにもかかわらず、それを突き放す行為は、奴隷との心の繋がりを拒否していることに繋がるからである。
繋がりを拒否されれば、相手を喜ばせたいという行為そのものが否定されていると考えても問題ない気がするからです。
そんな状況に自分が追い込まれたとき、相手を信用できるかどうかを考えると、信用という観点では、信用なしの状態であり、相手のすることに対して疑心暗鬼になること間違いないと思う。
結局何が言いたかったと言うと、心と心の繋がりの中で、自然とお仕えしたいと出てくる言葉が“ご主人様”だと思う。
ご主人様になるには、相手の心をしっかりと掴む必要があるのではないでしょうか。